いつから奴隷だったのかはもう覚えていない。気付けば足には重い鎖…そして主人に着けられた赤い首輪だけが俺を構成し得るものだった。奴隷を買う理由は多々あるが、俺の場合は文字通り主人の愛玩具として買われた。名のある領主である彼は鎖こそ頑丈なものを取り付けたが、俺を見下し虐げることは無かった。主人の住まう場へ連れられた俺は、流されるままに身体を磨かれ質の良い衣服を着せられて…まるで彼の人形に成り下がった心地だった。

 
「今日からお前の名はサルージャだよ。分かったね」


髪を梳かれながら言われた言葉に俺の中で何かが死んでいく。俺という存在の何もかもが剥ぎ取られて足場すら危うく感じた。俺は殆ど日がな一日をあてがわれた部屋で過ごし、会う人はといえば俺の身の回りの世話をする女の人と主人ばかりであった。主人は俺の許へと来ることもあれば自室へと呼ぶこともあった。けれど働かせるでもなくただ俺と居るのみで、そんな違和感までもが俺を縛り付け…そうしてとうとう聞いてしまったのだ、その理由を。初めは静かに聞いていた主人だが、俺の話が終わると同時に口の端をゆっくりと吊り上げた。その瞬間俺はああ失敗したなと脳の片隅で絶望にも近い感情を見た。


「そんなに気に病んでいるなら、お前にしか出来ない仕事を与えてあげよう」


手を引かれて誘われた寝所の場で、ジャラリと一つ鎖が大きな音を立てた。…それからは毎日のように主人と顔を合わせ、やがて生活の場すら共にするようになった。身体も精神も悲鳴を上げるが体内で反響するだけで誰にも聞こえやしない。睦言を口ずさみながら俺を抱く主人は最後に必ずお前を愛しているよと囁いた。その言葉はジクリと俺の中へと流れ込み、毒のように腐食する。心臓に杭を打たれように其処から全ての神経が凍り付いていった。







「サルージャ、ほら手を出してごらん」


ある日機嫌良く部屋へと戻ってきた主人は疲労で横たわる俺の傍にゆるりと腰を下ろした。自身の手の上に乗せられたガラス細工がキラキラと光を反射する。ぼんやりとそれを見詰めながら、ありがとうございますと義務のように口だけが勝手に動いた。…度々街へと下りる主人は時折土産を買ってくる。以前には細かな装飾の髪飾りが渡され、男の俺に何をと考えつつも捨てることも出来ずに棚の奥へと仕舞った。そんな毎日が息苦しくて日に日に感覚が消えていく。このままずっと同じようなことを繰り返すのかと思うと気が狂いそうだった。……だから、俺は、













「いけない子だねサルージャ」


屈強な男二人に床に押さえつけられて動けない。上から降る甘くて柔らかな声に全身が震える。

 
「夜の散歩は楽しかったかい?」


揶揄うような言葉の羅列にいたぶられているのが分かる。深夜に逃げ出そうとした自分の末路を考えた。このままいっそ殺してくれないだろうか…ああだけどそんなに簡単に殺してはくれないかな、あまり痛いのはやだな。意識を沈める俺の思考を読み取ったかのように、主人は喉の奥で笑った。


「私がお前を傷付ける訳がないだろう?」


なあ、サルージャ…だってお前はトクベツなんだから。しゃがんだ主人はいつものように俺の髪を梳く。ガタガタと奥底から溢れる恐怖に震えが止まらなくなる。


「だけど悪いことをしたらちゃんと罰は受けなければ……サルージャは頭の良い子だから分かるね?」


身体を引き起こされ、横抱きにされる。そのまま寝所まで連れて行かれて白い敷布の海に投げ出された。一気に血の気が引いた俺の顔を見て、主人はいやらしく唇を歪める。


「……お仕置きだよ」


その言葉と共に身に纏う衣服を裂かれ、荒々しく組み敷かれた。


「…ッ、や!ご、ごめんなさ…許して下さ…っ、」
「ああ、いつ見ても綺麗な身体だね。白くて滑らかで…可愛いよ」


うっとりとした表情で俺の肢体を眺める男に懇願の声は届かない。露わになった身体をスルスルと撫でられ鳥肌が立つ。


「サルージャ、私はお前を一生手放すつもりはないよ。だからもう無意味な希望を持つのはやめなさい」


大丈夫、ずっとずっと大切にするから。お前はトクベツだから。死ぬまで愛してあげるよ。

腐食する
腐食する
腐蝕される

優しく頬を包み込む体温が俺の心を壊していく。




(……もう、良いかな)

薄い膜が掛かったかのように現実から感情が離れていく。









(泣くな、アリババ!)


ああだって俺の名前を呼んでくれる存在なんてもうこの世界には誰一人としていないのだ。だったらもう、良いじゃないか。





「愛しているよ」
(サルージャ)



「……はい、だんなさま」















何故自分はこの人から逃げようと思ったのか…今の俺にはもう、わからなかった。